旧ユーゴスラヴィア - 風土記
概観
この項では、ユーゴスラヴィア(ユーゴスラビア、南スラブ人の国の意)連邦共和国及びその後の旧ユーゴ諸国について概観する。
ユーゴスラヴィア連邦共和国
旧ユーゴスラヴィアは、第一次世界大戦後にセルブクロアートスロヴェーン王国として成立し、後にユーゴスラヴィア王国となった。第二次世界大戦後はティトーの指導のもと社会主義連邦共和国となり、その政権下では、ソ連とは一線を画す独自の社会主義路線と非同盟政策を推進し国際的に一定の影響力を持った。しかし、国内ではセルビアを中心とする中央集権的な体制と各共和国の分権化要求との間で緊張が続いており、カリスマ性で国内をまとめ上げていたティトーの死後は各共和国で民族主義が高揚した。1990年代初頭には連邦を構成していた共和国が次々と独立を宣言し、それに伴い激しい紛争(ユーゴスラヴィア紛争・ユーゴスラヴィア内戦)が勃発した。 7つの国境、6つの共和国、5つの民族、4つの言語、3つの宗教、2つの文字、1つの国家と形容され、国内に多様な民族を抱えた。
旧ユーゴスラビア諸国の概況
最も西側の国が スロベニア で、首都はリュブリャナ。スロベニア人が8割、カトリックが6割近くを占め他は少数。西欧に地理的に近接しており、一人当たりGDPは28000ドルを超え裕福である。人口は約212万人。
スロベニアの東側を占め、逆V字型の国土を持つのが クロアチア 、首都はザグレブ。クロアチア人とカトリックがそれぞれ9割近くを占め他は少数。17000ドルほどでこちらも裕福であり、人口がは旧ユーゴスラヴィア構成国で2番目の約406万人。
クロアチアに挟まれているのが ボスニア・ヘルツェゴビナ で首都はサライェヴォ。半数ほどがムスリムのボシュニャク人で4割近くをセルビア人、1割強をクロアチア人が占める。イスラームのスンナ派が40%、セルビア正教会が31%、カトリックが15%。人口は約327万人と比較的多いが、6900ドルと低所得である。サラエボは、第一次世界大戦の発端となったサラエボ事件の舞台となった。
ボスニア・ヘルツェゴビナの南東、海に面しているのがかつては正教会による神権政治が行われていた モンテネグロ だ。首都はポドゴリツァで、4割がモンテネグロ人で3割がセルビア人。そのため正教会が7割強を占め、17%がイスラーム。人口は約63万人と少なく、9350ドル。
ボスニア・ヘルツェゴビナの東方は セルビア で、首都はベオグラード。コソヴォ紛争での民族浄化などが問題視されNATO軍に爆撃をうける。8割強がセルビア人で、セルビア正教が9割近くを占める。人口は約669万人と旧ユーゴスラヴィア構成国中最大であるが、8460ドルと少ない。
セルビアの南方に位置するのが コソヴォ で、首都はプリシュティナ。9割以上がアルバニア人で、ムスリムも9割を超える。人口は約166万人で、5130ドルと旧ユーゴスラヴィア構成国中最も貧しい。
北マケドニア はギリシアと国境を接し、かつては国名で揉めていた(ギリシアの北部もいわゆる「マケドニア」であるため、マケドニアという国名の使用にギリシアが反対し30年ほど揉めていた。その間の暫定的な呼称として国名は「マケドニア旧ユーゴスラビア共和国」とされており、国名で最後までユーゴスラヴィアの文字が残った例であった。2019年に最終的解決に至り、「北マケドニア」となった)。首都はスコピエ。マケドニア人が約65%、アルバニア人が約25%。マケドニア正教とイスラームの割合も概ね民族構成と合致する(が、若干イスラームの割合が多い)。北マケドニアでは、地方自治体単位では人口の20%以上の話者を持てば少数語もその地方自治体の公用語として認められる制度がある。
※以上、統計は2024年版データブックオブザワールドより。